1,幕末当時の山鼻周辺の環境

 

  この地域には各種の喬木、灌木特に槲の森が多く、葡萄、蔦、こくわ等が繁茂し、やか、茅、よもぎの草原が各所に散在し、豊平川の氾濫による土壌の決壊、土砂の流失や堆積が各所に現われ、森林地帯は罷、鹿、狐、鷲等の巣窟となり、河川地帯は鮭、鱒等の棲息の場所で、アイヌ民族の狩猟漁場となつていた。 特に夏期は日高地方の鹿が群をなして集まった関係から山鼻地区はアイヌ語でユクニクリ(鹿村)と云われていた。

 土質は砂磯を交えた砂質壌土で、地形は高低凹凸ある段丘地であったため農耕のため入地者は殆んどなく、札幌周辺に始めて和人が定住したのは安政初期に石狩調役として石狩に赴任した幕臣荒井金助が自費で農家数戸を地味肥沃な篠路村に移住させ荒井村と称えたのが農家移住の始まりである。

 荒井は豊平川の渡船の必要から志村鉄一に家具米噌を与えて豊平河畔に定住させ、その子に渡守をせ、次いで同所に通行所を設け、幕吏の宿泊と通行の便に供するため吉田茂八を対岸に居住させた。これが旧札幌地区内に和人が入地居住した最初である。

 次いで安政4年幕府藩士の奨励による募集農民として福島県人早山清太郎が家族同伴、円山の麓で水田を開き、萬延元年に篠路に移り永住した。

 その後、慶応2年2月、小田原の幕吏大友亀太郎が、札幌元村に農民20戸70人を移住させ、幕府の御手作場経営の場所の調査と大友堀の開削を遂行し拓地殖民の基盤作りに貢献した。

 ところが明治維新の幕府の瓦解により、本道関拓の任に当った箱館奉行以下幕吏の多くは本道を去ったが、その後、漁夫その他の移民が入り、明治元年の札幌周辺の在住者は28戸に及び開墾反別は水田4反4畝、畑47町2反歩に達したものの、人家は頗る稀薄であつた。

 従って札幌を中心として、その周辺の開発は明治元年の北海道関拓法の発布を契機として、特に屯田兵村の関設により急速に進展した。

2,明治初期の山鼻地区の開発

 

 山鼻地区開発の端著は明治2年9月、第二代目長官東久世通禧が英国船で人民職工850名を本道及び樺太に移住させる一方、島判官が札幌を本道の本府と定めて北1条西1丁目に官邸を建設、銭函、札幌間に道路を開設し、仮病院を設置すると共に同年11月仮移民扶助規則を設けて移民の招致優遇に努めた。これにより明治3年7月、大谷派法主現如上人大谷光勝が山鼻地区の南7条西7〜8丁目の敷地の下附を受け、越後国高田の廃寺を明治3年10月に移築して、札幌本府東本願寺管刹と称した。そして札幌と西長流間に延長27里の道路を開削し、橋梁113を1ケ年半に亘って完成、更に八垂別に至る巾3尺、延長1 里の新道を切り開き、上山鼻に本願寺開墾地10万坪の下附を受けて桑名から2戸の農家を移したのが、山鼻地区に於ける農家移住の始めである。

 次いで明治4年9月新潟から移民初戸を招き、関拓使が募集した農家と合わせ、山鼻本願寺の南裏の4町歩に関拓使の事業として50戸の草盧を建てたが、野火の類焼を恐れてその後、琴似村の24軒に移し、草盧は所謂岩村大判官の御用火事で焼き尽した。

 尚、当時開墾に従事する者に扶助を与えた結果、上山鼻に2戸、下山鼻に3 戸、伏見方面に2戸、鴨々川沿に2戸が移住し、明治7年9月、豊平、上白石村と共に山鼻村を創設した。 当時の山鼻村は石山道路を中心とした広範囲の地域であつたが、住民は僅か10戸であった。

 当時は鹿が群をなして横行し作物の被害が大きく、牧柵もその効なく農民はその対策に苦労し、度々鹿狩が決行された。開拓当初、鹿肉の缶詰が製造販売された程群棲していた鹿も、明治11 年の暮から12年にかけての未曽有の大雪で絶滅したと永年伝えられていたが、実は生き残って繁殖を続けている。

 当時日高地方には狼が多く、新冠で一夜に百頭余の子馬が被害を受けたので、エドウイン、ダンがストリキニ一ネで退治した結果、蝦夷狼は爾来姿を消すに至った。

3,北海道開拓と屯田兵制度

 

 明治元年3月12日蝦夷地開拓の廟議が決定し、明治2年地名が北海道と改称され、7月12自鍋島直正が開拓使長官、島義勇が開拓判官に任命されたが、鍋島長宮は老齢病気のため8月16日辞任、東久世通禧が8月26日第二代長官に任命された。島判官はその間に雄大な計画の下に本道の主都として札幌本府建設の歩を進めた。

 明治3年黒田清隆が開拓次官に任命されるや本道開拓に関する意見十カ条を大政官に提出し、同年11月開拓顧問を招稗するため渡米し、グラント大統領に要請した結果ケプ口ン農務長官を団長とする顧問団が明治4年から本道の開拓に当つた。

 また、黒田次官の兵備に関する意見に就て明治4年8月、陸軍大将西郷隆盛は少将桐野利秋に申請の内容を含めて札幌本府周辺を調査させた。

 西郷隆盛は明治4年屯田兵に就て論じているがその大要は、大政奉還の結果禄を失つた士族を屯田兵として北海道の開拓と国土防衛に従事させる事が一挙両得である、と論じている。

 尚、桐野の復命によつて札幌に鎮台を護き、開拓使永山武四郎等に諮り共鳴を得て明治6年安田定則、時任為基、大山薫等開拓使幹部と共に、黒田次官に屯田兵制度設置を建議した。之に基づき黒田清隆が建白書を提出した結果、明治7年6月黒田清隆を陸軍中将に任命すると共に北海道屯田事務を総理させ、同年10月に屯田兵例則を設け、屯田兵の編成及び給与を制定し、10月に札幌郡琴似村に兵屋200戸の建築に着手、大砲4門、小銃1,600挺を米国より輸入する等準備を進め、明治8 年1月には定員1,440人を道内及び、青森、宮城、酒田の士族にして戊申の役に従事した者から募集し、入隊志願者198戸、男女965人を明治8年5月兵屋完成と同時に移住させ、第一大隊、第一中隊を編成し、茲に本道最初の屯田兵が実現した。

4,山鼻屯田兵村の設置

 

 山鼻屯田兵村は明治7年10月の屯田兵制の制定に伴ない琴似兵村に次いで明治9年5月に開設されたが、その地域に就ては開拓使顧間ケプ口ンが明治7年7月実地調査の結果、適地と認めて決定された。而しその1戸当りの宅地及び給与地に就いては、開拓使の案では挾隘であるとのケプ口ンの意見に従い、検討の結果給与地15,000坪(下士官は20,000坪)を限度として決定され、また入殖時の賦与地は、宅地150坪に接続したし1,500坪を1戸分とした。但し給与地は山鼻村及び八垂別、平岸村字簾舞、豊平村字月寒、白石村字厚別等に亘り、家族の開墾の度合いによつては部分給与を受ける制度とした。

 この計画の元に明治8年10月より240戸の兵屋の建築に着手し、冬期雪積中に17,900本の樹木を伐採し、6,159株の倒木を除去して、明治9年5月に竣工した。その区域は石山道路をはさみ、東西両屯田に分け、東屯田は現在の南8条より南23条まで、西8丁目と西9了目に夫々60戸を背向け合わせに立て、西屯田は南9条より南21条までの間に、西12丁目と西13丁目に夫々60戸の兵屋を建て、その間、宮城、青森、置賜(山形)、岩手の各藩士と、明治3年以来、有珠郡伊達村に移住した伊達邦成の家臣等から募集した240戸、1,114人を5月29日に移住させ、琴似屯田兵と共に第一大隊を編成し第ニ中隊とした。

 この兵村の総面積は約130万坪で、現在の西1丁目より西7丁目までは南7条以南、西9丁目、西10丁目は南2条以南、西11丁目以西は南1条以南を山鼻村と認め、その中から当時の牧羊地や中島区域を除いた全地域を屯田兵給与地として240戸に区画し給与した。

 この給与地の中には共有地、屯田中隊練兵場、競馬場、蚕室、蚤糸場、その他共同作業場や射的場に供されたが、それは南13条及び南14条の東西両屯田通りの区域である。山鼻小学校は明治11年現在地で竣工式を挙行したが、それ迄は子弟を私塾や家庭で教育し苦労を重ねた。

5,山鼻兵村開設後道庁設置迄の経緯

 

 屯田兵は兵農一致の制度で、兵事を練磨すると共に、家族と共に土地の開墾と耕作に従事する任務を負っていた。従って応募年令は18歳より35歳で家族携帯者とし、服役年限は当時未定であったが、明治18年の条例では40歳に達すればその子弟に相続させ、相続者が幼弱の場合は成長を待って服役させる規定となった。兵事訓練は早朝より夕刻迄年中行なわれたが入殖当時は大木の伐採、倒木の処理は到底個人の力では出来なかったので中隊全員で整理し、これらを集積して焼き払った。その後の開墾も分隊又は小隊に分かれて共同作業で朝6時から午後5時まで日曜祭日の別なく、家族もまた監督の元に自家の開墾に当った。山鼻屯田兵は全員士族で開墾や農事の経験がなかったのでその苦労は言語に絶した。かくして兵屋周辺の土地は農地と化し、次いで給与地の開墾を進めたが、家族の稼働力の関係で分割給与も実施され山鼻屯田以外の地域も開拓されるに至った。

 屯田兵の移住当初、3年間は一定の扶助を受けて開墾に従事したが、その後は自活に努め、ケプ口ン等の意見により寒冷地に適する作物が栽培され、また開拓使の授産事業として養蚕を奨励し、東北地方の桑苗を購入して桑園を設置し、兵村に養蚕室を設けて指導、監督に努めた。而し、この養蚕は所期の成果を挙げなかった。また木炭の生産も行ったが不振に終った。大麻を奨励し魚網に供したが繊維が粗大で亜麻、綿糸に劣り失敗した。

 次いで梨、林檎、季、桜、桃等の苗木を支給し栽培させた結果、その成果は頗る良好で、明治18年には5,580本に達し山鼻は果樹の生産で著名になった。また農耕の必要上馬匹を供与し繁殖を図った結果、明治19年には道産馬147頭の外、和洋雑種馬牝牡322頭に達し、馬場を設けて競馬も実施した。

 明治15年1月開拓使長官黒田清隆が内閣顧間となり、西郷従道が長官を兼務したが同年2月開拓使が廃止され、札幌、函館、根室の3県制が実施され、次いで明治19年3県を廃し北海道庁が設置された。

6,北海道庁設置以後の山鼻村の発展

 

 山鼻村の開発は北海道庁の設置に伴ない、岩村長官の中島公園の開設を契機として進展し、各種の果樹、蔬菜の供給地として重視された。明治37年屯田兵条例廃止と共に兵村の公有財産は部落の財産として引継がれ、これを処理する機関として部落会が組織され、それが後で自治会に発展し、監督官庁、市長村理事者、並びに市区町村会等の間に活躍し山鼻の発展上多大な寄与をした。

 この部落会以前に兵村の自治機関として、明治21年兵村会が創設され、24名の議員を選出して公有財産及び共有財産の取扱機関とし、学校維持、土木、備荒、農業改良、相互扶助、衛生、兵村の予算及び収支に関する自治的業務を果たした。また隣保組合を20戸毎に設けて組合員の親和、吉凶に対する互助、春秋の親睦会、火防衛生、道路修繕に関する諸問題を自治的に処理し、屯田兵条例廃止まで継続して和親互助の実をあげた。

 この条例療止に伴ない、明治39年山鼻村は円山村と合併して藻岩村と改称、明治43年山鼻村は札幌区に編入された。その区域は南2条以南西9丁目以西、但し8丁自迄は南7条以南鴨々川に沿つて豊平川堤防終点迄、西は藻岩村界迄の大地積である。明治44年、皇太子殿下が行啓され、次いで大正7年、開道50年記念式典並びに北海道博覧会が中島公園で開設され、電車が開通されるに至り、山鼻地区の住み良い環境が市民に認められ、住宅及び商店等の建築が急速に進んだ。よって地区発展のため道路網と区画整理が重要課題となり、これを解決する為に大正9年佐藤善七を区会議員に選出し、更に地区住民の理解と協力を得る為に山鼻自治会を結成してその推進を計つた。その結果、大正10年の区会に於て、この道路開削の件が議決され、予算化されたが、その着手は大正11年に市政がしかれ、都市計画委員会が設けられた後で7ヶ年の長期に亘り延長24里、462の新町街が整然と形成され、爾来文京住宅地として発展するに至つた。