山鼻屯田

 

山鼻兵村とは

 

 屯田兵は、失業士族の救済、北海道の防備及び農業開拓を目的に設置された軍隊制度です。明治7年開拓史黒田清隆の建議により屯田兵例則が制定され、翌明治8年に琴似兵村が開村しました。

 

 山鼻兵村は、明治9年琴似に次ぐ二番目の兵村として開村しました。この兵村は札幌本府に最も近く、当時不振であった本府経営の活発化を計ると言う目的も持たされていました。このため、軍務および開拓という本来の使命の他に憲兵として本府および札幌周辺の治安維持と非常災害救助という警察業務も兼ねていたのです。さらに入植した兵士にも屯田兵の指導者養成の教育を行い、多くの人材を道内各地の兵村に送り出し、その後の兵村の指導に重要な役割を果たしました。

 

 山鼻兵村には明治9年5月、東屯田と西屯田にそれぞれ120戸が本州の青森、坂田(現在の山形)、宮城、秋田そして北海道の伊達から士族の志願者が家族連れで1.114人移住して来ました。屯田兵は小樽から徒歩で札幌山鼻に入りました。当時の山鼻は、その昔アイヌの居住地で「ユクニクリ」鹿の多くいるところと呼ばれていました。山鼻と言う地名の由来は、藻岩山が迫り出してきた山麓に位置していることから、山の端、山の鼻ということで「山鼻」と呼ばれるようになったといわれています。現在は札幌の中心部に位置し東西の中心を国道230号(通称石山通)が定山渓温泉方面に走行しています。

 

 山鼻兵村の区画割りは、石山道路(現在の石山通)を南北に一直線を基線としてその中に約130万坪の地積を用意しました。そして石山道路を10間幅ととしてそれに平行して両側に6間幅の道路を設け、その東側を「東屯田通り」西側を「西屯田通り」と名付けました。「東屯田」は、現在の南8条から南23条の間の西8丁目と9丁目、また「西屯田」は、南6条から南21条の間の西12丁目と西13丁目で、東西屯田にそれぞれ120戸の兵屋を建設しました。山鼻兵村は琴似兵村とともに、このあとに続く兵村建設の模範あるいは基準作りの目的も持っていました。とくに山鼻兵村は建設の過程において、兵屋の配置は、琴似の密居制から農業開拓を重視した粗居形式となり、兵屋の間取りの変化とともにその後の兵村の原形となったのです。

 

 屯田兵の入植時にはそれぞれ150坪の宅地と地続きの1.500坪が給与されましたが、これに加えて兵村の近隣地区に3.500坪の耕地が与えられ、その後、明治11年には5.000坪を、明治23年の規則の改定で5.000坪が追給されたことにより合計15,000坪の土地 か給与されたのです。

 

                 

 

            

屯田兵制度の推移

 

 屯田兵制度は、当初士族の救済と北海道の防備・農業開拓を目的に明治7年に設置された軍隊制度でありましたが、明治23年には条例が改正され、士族屯田から農民など一般の人々も応募できる平民屯田に変わり、道北・道東へと兵村を伸ばして行きましたが、一般移民の増加や第七師団の設置によって明治23年、屯田条例が廃止されその歴史を終えました。

 明治8年の琴似兵村から明治32年の剣淵兵村まで、37兵村、約7千戸、兵士及び家族訳4万人の移住でありました。他の移住と比べますと大きな数ではありませんが、北海道開拓の先駆として、或いは北海道農業の指導的役割として農村形成に大きく寄与したのでした。

写真は「山鼻屯田兵の像」で、かつての屯田兵の霊が眠ってた山鼻墓地の移転跡に

建立されている。